イプセンの『人形の家』

 自分の意志で、あるものを目の中に入れないように努力をするのは至難の業だ。それはいつも急激に、不意を突いて飛び込んでくる。今年で30歳を迎える鹿島雅彦はそれをいやというほど味わっていた。
 雅彦が本屋に行くと、岩波文庫のエリアの前は絶対に通らない。雅彦が絶対に目にしたくない本の背表紙を見てしまうかもしれないからだ。その本の名前はイプセンの『人形の家』。雅彦はそのタイトルを思い出すだけで過去のトラウマを思い出してしまうのだ。
 あれはもう7年も前のことになる。大学の新卒で人材派遣会社に入社した雅彦は23歳の若さにもかかわらず、ある電機メーカーのコールセンターのセンター長を任された。社会経験の少ない雅彦にとってはかなり重大な責務であり、毎日の仕事をこなすだけで精一杯だった。
 オペレーターのほとんどは女性で、雅彦が赴任してきた日の挨拶は、射抜かれるような視線でジロジロと見られた。どうやら前任者の小島大三郎という人がなかなかの人気者で、盛大な送別会が開かれたらしい。「小島さんよりいい人が来るわけないよね」という空気の中に飛び込んできた雅彦にとっては相当なプレッシャーだった。
 雅彦はとにかく若さと明るさで、オペレーターの人たちに好かれようと思い、とにかく毎日どんな些細な話題でもいいから話しかけるようにした。幸いにも雅彦は人の話を聞くのが大好きだったのだ。すると、彼女たちは自分の話を聞いてもらえるのはまんざらではないようで、徐々に雅彦の株が上がりつつあった。女性たちの内輪の飲み会にも呼んでもらうことができ、「小島さんまでは行かないけど、鹿島さんもけっこういいね」と言ってもらうことができた。
 自分の存在が受け入れられるようになると、雅彦はだんだん仕事が楽しくなってきた。女性からチヤホヤされて嫌な男はいない。何人か自分好みの女性を見つけることもできて、あんなに学生の頃は苦手だった朝が、スイスイと起きれるようになった。
 しかし、そんな夢のような日々も一瞬にして終焉を迎える。きっかけは、ある40代の女性オペレーターに話していたときのことだった。彼女はシフト提出の際に、次の週末を自分の演劇の公演があるから休みたいと行ってきた。雅彦は了承し、頑張ってくださいねと言った。そして、本当に余計な一言を言ってしまった。
「どんな演劇をやってるんですか? イプセンの『人形の家』みたいな?」
 すると、女性の顔は見る見るうちに紅潮し、「あんな不道徳なものをやるわけないじゃないですか!」と怒鳴った。
 雅彦はなぜ女性がそんなに怒るのかわからず、「ごめんなさい。演劇は全然詳しくないんですが、たまたま『人形の家』の題名は知っていたもので」と弁解すると、それがまた火に油を注ぐ結果となった。
「たまたま? たまたまで済むと思っているんですか? しかも全然知らないくせに、そんな失礼なことを軽々しく言うなんて無責任にもほどがあります! そんな非常識な人だとは思わなかった!」
 彼女はその場を立ち去り、雅彦は呆然とした。何となく相手の気持ちを傷つけたのはわかったが、なぜあそこまで激昂するのかは理解できなかった。
 雅彦の家族は誰も本を読まない家で、本棚は漫画と雑貨ばかりでスカスカだった。そんな本棚に唯一あった文庫本がイプセンの『人形の家』で、いつもタイトルは目にしていたのだ。当時小学生が母に「この本は何?」と聞くと、母は「演劇よ」と答えた。母はずっと昔の女学校時代に、一瞬仲良くなった演劇少女からこの本を読むように勧められたものの、結局読むことはなく、捨てるに捨てられないから本棚の中で眠らせていたのだ。
 何にせよ、軽い失敗をしてしまったようだから、とりあえずお詫びに菓子折りでも買って渡そうと雅彦は考えたが、事態はそれだけでは終わらなかった。翌日、職場に来てみると、オペレーターたちの視線がきついのがわかった。やがてしばらくすると、雅彦の現場の上司にあたる電機メーカー社員がやってきて、雅彦に「辞めてもらう」と告げた。そのときは何が起こったのかわからなかったが、その夜、雅彦の家に警察がやってきて雅彦を連行した後、ある女性オペレーターが、雅彦に襲われたと話したと知った。もちろんその相手とは、イプセンで傷つけてしまった相手だった。彼女は雅彦の手口が恐ろしく残虐だったと告げ、証拠は不十分だったにもかかわらず、女性の供述に真実味があるということで雅彦は逮捕された。
 雅彦は2年で釈放されたが、その後も女性からの嫌がらせは続いた。新しい職場に復帰すると、彼女はすぐにその職場を突き止め、怪文書のようなものをバラまき、そして雅彦は首になった。のべ5つの職場をクビになり、今は無職で生活保護をもらっている。雅彦は就職したいと思うのだが、またあの女性が現れて何かをするのではと思ってしまうと、働く意欲が全くなくなるのだ。
 ここ半年は全然仕事をしていないからか、女性からの嫌がらせは一時休止しているが、雅彦はあの日の出来事を思い出したくもない。イプセンだとか、人形の家だとか、そういった文字を目にするたびに吐き気と頭痛に襲われるのだ。しかもそんなときに限って、テレビやインターネットを見ていると、その2つの単語が目に飛び込んでくる。ある日、電車の中で目の前の若者が読んでいた文庫本がそれだったときは、若者を突き飛ばしそうになった。この症状がいつまで続くのかわからないが、もう社会に復帰するのは難しいと自分でも思う。まさに口は災いのもと。何気なく放った一言のおかげで、雅彦の人生は台無しになってしまったのだ。