跳ねたらそれがウサギでしょう

 あれは3年前、止めるあの人を駅に残し、動き始めた汽車にひとり飛び乗ったときのことでした。私は目の前にある世界が何であるか全くわからなくなりました。目の前に座っている人が男なのか、女なのか。今が7月なのか、12月なのか。この世界が平和なのか、危険なのか。記憶喪失というのとはちょっと違います。ものの名前を忘れたわけではありません。目の前にあるすべてのものが、“どうしてそれであるか”ということが理解できないのです。
 まるで自分の身体が自分のものでないかのようでした。私は目の前に座った人に「あなたは男性ですか。女性ですか」と聞きました。相手は「男性です」と答えました。「今は何月ですか」と聞きました。彼は「8月です」と答えました。私はそれを聞いて、この人は男性であり、今は8月であると思いこむことにしました。そうでないと、自分で判断する術をもっていなかったからなのです。一言で言うならば、“名詞”と“意味”とを結ぶ鎖がぶつりと切れてしまったとでもいいましょうか。
 汽車は終着駅に停まり、私はその男性に「ここはどこですか」と聞きました。彼は「東京です」と答えたから、私はここは東京なんだと思い込むようにしました。私はそうやって人に聞き、自分で判断することは控えて、人がそう言うからというからという理由で世界を認識してきました。奇妙な方法に見えるかもしれませんが、それから半年もすることには違和感なく世界を受け入れられるようになってきました。名詞と私の間に意味などを求めても仕方ないのです。哲学的な言い回しになりますが、それはそれだからそれであり、あれはあれだからあれなのです。このことに気づいたおかげで、誰かと会話をしていても、この人は大丈夫なのだろうかという目で見られることがなくなりました。
 しかしそのまた半年くらい経った後、目の前の物事について人にだいぶ説明してもらわなくてもよくなった後、私は再び目の前の世界が何であるかがわからなくなってしまいました。名詞と私の間に意味などを求めていなかったつもりなのですが、無意識のうちに私は意味を求めてしまっていたようなのです。私の周りに再び集まっていた名詞は、津波が引いていくかのようにバラバラと遠ざかっていきました。そこで私は再び人に聞き、1から目の前にあるものが何であるかを認識していきました。意味を求めようとする心を押し殺すのに必死でした。そのまた半年後には、意味を求めることなく世界が何であるかをわかるようになってきました。しかしまたその半年後には同じように世界が何であるかが理解できなくなり、また1から人に聞き直さなくてはならなくなりました。
 今はまたようやく世界に散らばる名詞が自分のところに近づいてきてくれたところです。初めてのときから数えて3回目になります。でも、また油断をすれば、私の無意識は意味探しをはじめ、その行為に愛想を尽かした名詞たちは手元を離れ、半年後には世界が何であるかわからなくなるでしょう。でもそのときはまた人に聞けばいいのです。男は人がそう言うから男であり、地球とは人がそう言うから地球であり、ウサギは人がそう言うからウサギなのです。それ以上でもそれ以下でもないのです。