フレキシブル森崎のフレキシブルぶりがすごい

 フレキシブル森崎は子供の頃は今のようにフレキシブルではなかったと言われている。それが25歳のときに天啓に導かれるかのようにフレキシブルに生きなければならないと思った。そして自分にプレッシャーをかけるかのようにフレキシブル森崎と名乗ったというわけだ。
 それからの活躍はご存知の通りだ。小さい頃からおにぎりが好きで好きで仕方なかったために、おにぎり専門の会社「リギニオ」を設立。これが大ヒットし、グルメ界の風雲児としてメディアから引っ張りだことなったが、突如会社を他人の手に渡し、タクシー運転手として働いた。これは手塚治虫の漫画『ミッドナイト』を漫画喫茶で読んで感動したからだと言われている。タクシー運転手として働きながら、カーラジオから流れる演歌にハートを射抜かれて自作の曲を作り始めてデビュー。そのうちの『すだれ越しの愛』がミリオンセラーとなった。ただ歌手としてやっていくことには魅力を感じなかったようで、たまにテレビ番組で歌うくらいで、後はタクシー運転手をやっていくのかと思われた。ところがタクシー運転手として2年間働いた後、埼玉県知事に立候補して当選。政治家としての才能を遺憾なく発揮する。やがてフレキシブル森崎の活動は国政へとシフトしていき、外務大臣となって各国と激しいバトル&交渉を繰り広げ、「フレキシブル森崎は日本史上最高の外務大臣だ」と言われるようになった。
 しかし例のごとくフレキシブル森崎の仕事は長続きしない。外務大臣として2年目の任期を迎えた頃、仕事先のアルメニアで出会った女性と結婚することを決意して寿退社。フレキシブル森崎はこの時36歳で独身だった。フレキシブル森崎はアルメニアに移住し、そこで農業開発の会社を立ち上げて軌道に乗せる。妻の家族や親族をそこで働かせながら、フレキシブル森崎は日本向けのインターネットTVを作り、アルメニアで活躍するお笑い芸人や歌手の映像を流す番組を始める。これが思いのほか日本で大ヒットし、アルメニアのバンド「バリ・ギシェール(日本語でおやすみなさいの意)」が紅白歌合戦に出たのも記憶に新しい。フレキシブル森崎はこの時から自分でも楽器を始め、バリ・ギシェールに電撃加入を果たす。この新生バリ・ギシェールの映像をネットで観たコールドプレイが彼らのことを気に入り、全米ツアーをともに回った。この全米ツアーの際に、多くの子供たちと触れ合ったフレキシブル森崎はアメリカの教育システムの弊害について憂いを抱き始め、バンドを脱退して家族でアメリカに移住し、教育システムの改善を図るようになる。こうしてフレキシブル森崎の力でアメリカの教育システムは少しずつ改善されていき、今ではフレキシブル森崎は「アメリカの教育界の父」と呼ばれている。
 現在、フレキシブル森崎はアメリカで出会った音楽エンジニアのハッサン氏とともに訪れたケニア旅行で(ハッサン氏の家族はケニア在住)、マサイ族の人たちのチーズを作る技術に心を奪われ、そのままケニアに定住しながらマサイ族の人たちとともに新しいチーズ開発に勤しんでいるという。まさに日本が世界に誇る人材となっているのだが、ある時期から日本のメディアはフレキシブル森崎のことを一切取り上げなくなった。もはや理解できる範疇にないのだ。これはとても寂しいことであるし、我々はフレキシブル森崎の行動力と才能から、この混迷した時代を生き抜くヒントをもっともっと学んでいかなくてはならない。